「プレッシャーはなかったんだけど、空回りしてしまったなぁ」
円盤投げ・大井利江のロンドンは、あっけなく幕を閉じた。車椅子から移乗して投てき台に腰かけ、そこで上半身を大きくひねって円盤を投げる。予選で投げた3投のうち、1本目の20m35が最高。12人中10位の記録で、上位8人による決勝に進めなかった。
車椅子クラス(F53)の世界記録保持者(26m62)。手の握力がほとんどない大井は、右手の指先のわずかな曲がりに円盤をひっかけて投げる。北京のあと、指の硬直が解けて日常生活は楽になったが、円盤のひっかかりは不安定になった。今回はロンドンの乾燥も大敵で、松ヤニを塗るなど対策を取っていたが、今日は指から円盤がすっぽ抜けてしまった。不完全燃焼で終わり、その表情に無念さをにじませた。
開会式が行われた8月29日に64歳の誕生日を迎えた。「何かの縁があって、開会式の日が誕生日。今回は何かいいことがあるかな、と思ったけど残念な結果になってしまった」と唇をかむ。
マグロ漁師から円盤投げ選手へ
岩手県洋野町で生まれ育った。マグロの遠洋漁業の漁師だった1989年、漁船操業中に漁具が首に落下。胸から下の機能が失われた。リハビリの一環で始めた水泳の大会で記録を出始めると競技として取り組むようになり、パラリンピックを目指すようになった。
円盤投げを始めたのは49歳のとき。陸上関係者に体格の良さを見染められ、勧められるまま円盤を手にした。最初は難しかったが、そこに魅力を感じた。それからは「マグロを持ち上げて、水槽の中に放り投げる要領」で練習を重ね、記録を伸ばしていった。
初出場のアテネパラリンピックで銀メダルを獲得。60歳で迎えた北京では、クラス統合のため障害の軽いクラスに入ったが、その中で銅メダルを獲得した。ロンドン出場を目指していた昨年は東日本大震災で被災。海岸近くの自宅は幸い無事だったが、あまりの惨状を前に、練習を続けていいものか悩んだという。日ごろの練習をサポートしてくれる妻の須恵子さんの励ましもあり、練習を再開してからは「被災地に希望を与えたい」とトレーニングに励んだ。
ロンドンでメダルを取って、応援してくれた被災地の人たちに恩返しをしたい。その願いは叶わなかったが、「もしかしたらロンドンに来られなかったかもしれない。そういう点では、この大舞台に立てたのは本当に幸せだと思います」と感謝の言葉を口にした。
競技者として年齢の問題は切っても切り離せない。大井の身体を心配する須恵子さんは引退を勧めるが、本人の視線はすでに4年後のリオに向いている。「金メダル取らないとやめられない。いや、金メダルをとってもやめないかも」と笑い飛ばす。
以前、還暦を越えてなおも努力を続けるパワーの源は何かと聞いたことがある。すると、大井はこう答えた。
「夢があるんだよね。もっと遠くへ投げたいっていう夢が。生きている限り、みんなにほんの少しでも希望を与えられたら」
大井利江の競技人生は、まだまだ続く――。
(取材・文/荒木美晴)