5月13〜15日に車椅子バスケットボール男子日本代表選考合宿が、長野県障害者福祉センター・サンアップルで行われた。東日本大震災後、初めて日本代表候補メンバーがそろった。メンバーの中には、震災で被災した「宮城MAX」(宮城県)のスタッフや選手らが多数いる。「広州2010アジアパラ競技大会」男子日本代表監督を務めた、宮城MAX・岩佐義明監督と北京パラリンピック・車椅子バスケットボール日本代表主将の藤井新悟選手に話を聞いた。
「正直な話、日本代表の監督はできないと思っていました」(岩佐監督)
岩佐監督は3月11日の東日本大震災の津波により、亘理郡山元町にある自宅が全壊した。3日ほどでやっと潮が引き、瓦礫の中を歩いて自宅を探しに行ったところ、基礎以外の全てが流れてしまっていたという。現在は亘理郡に隣接する角田市の義弟の家に身を寄せているが、自宅再建には時間がかかるため、6月から仮設住宅で生活することになるそうだ。
「正直な話、日本代表の監督はできないと思っていました」と岩佐監督。「家のことも家族のことも考えなくちゃいけないこのような状況で、この合宿に来て本当に良いのか、この体育館に着くまで悩んでいました。ただ、選手の顔を見て吹っ切れました。被災地から、いや、『仮設住宅からロンドンへ』かな。頑張りますよ」
「ピンチをチャンスに変えたいんです」(藤井選手)
仙台市在住の藤井新悟選手は、仕事場から何とか自宅に帰宅することができたものの、停電の影響と余震を考慮して、その日は車中で過ごした。ライフラインの復旧が見込めなかっため、それから一週間ほど、近くの福祉施設で避難生活を強いられた。
練習場所だった体育館は、避難所となって使用できない。チームの練習は、約1カ月経ってから再開できた。新たな練習場所は、仙台から車で一時間ほどの山形市福祉体育館。仲間の顔を見たときは「涙が出そうになった」という。練習は、週1回から始まり、ゴールデンウィーク明けにようやく週に2回ほどできる環境になっていった。
この未曽有の大災害に相対しても、藤井選手は「これをチャンスにしたい」と語り、バスケに対する情熱を失うことはなかった。
「バスケットボールは習慣のスポーツだから、今まで積み上げてきたものがなくなってしまうのではないかという不安はあります。これからも宮城MAXがチームとして練習量を増やすことは難しい状況ですし、他の日本代表選手とも差はどんどんついていくと思います。もともと、世界と日本のレベルの差は痛感していて、地球をひっくり返せるくらいの何かが起こらない限り、この現状は変わらないのではと思うこともあった。そしてこの大震災が起きた。これは日本の車椅子バスケットボールを、一人ひとりが見つめ直すことができる良いチャンスなんじゃないかと思うんです。ピンチをチャンスに変えたいんです」
まずはアジア、そして世界へ
まだまだ日本全土で震災の混乱が続いている中、ロンドンパラリンピックへのカウントダウンは日々刻々と進んでいる。11月にはロンドンパラリンピック予選のアジア・オセアニア地区大会(韓国)が控えており、残された時間はすでに半年を切った。
日本で何が起きていようとも、世界は待ってくれない。被災地からロンドンへ、そして、メダル獲得までの道のりは遠く厳しい。
震災後に思うように練習ができなかったため、選手の練習不足は否めず、戦術の浸透もまだまだ時間がかかるだろう。ただ、藤井選手が言うように、ピンチをチャンスにできた先に待っている日本の姿に、強く惹かれてならない。千里の道も一歩から。その一歩目が、ゆっくりと長野で踏み出された。
(取材・撮影/イトウシンゴ)