見えない敵と戦い気づいた、自分の原点とは
ひとつのターニングポイントは、年間グランドスラムを達成した時だ。
4年前、アテネが終わったあとは、転戦する海外ツアーのタイトル獲得を目指し、打倒アマラーンを胸に秘めて戦ってきた。だが世界一になり、誰の背中も見えなくなった時、心にぽっかりと穴が開いてしまったのだという。帰国直後の早朝練習でコートに立っても、やる気がでない。飛んできたボールをただ打ち返すだけの、空虚な時間が流れていった。
「勝つことに囚われすぎて、なぜテニスをやっているのかわからなくなった。テニスが好き、うまくなりたい、という気持ちを忘れてしまったんですね。さすがにあのときは、“お前が練習するっていうから、俺は朝5時半から来て準備している。お前にやる気がないなら、俺はここにいる意味がない”って、丸山コーチからガツンと言われましたね」と苦笑いしながら振り返る。
国枝の眼から消えた、いつもの鋭さとオーラ。国枝が17歳のころから指導する丸山弘道コーチも、彼の変化は理解した。当時弱冠23歳の若者にとって、世界一の先にある次なる目標を見つけ出すことが容易でないことは、痛いほどわかっていたからだ。だが、世界一になった彼には、夢を与えるという役割がある。だからこそ丸山コーチは、あえて国枝に厳しい言葉をぶつけたのだ。
丸山コーチに背中を押されて、練習を再開。完全に気持ちの切り替えができたのは、それから2ヵ月ほど経ってからだという。だが、その後出場した試合で、彼は自身の大きな変化と出会うことになる。
「コートに出て、いつもと同じつもりなのに、とにかく一球一球打つのがとても面白くて、テニスをすることがすごく楽しいと思える瞬間があったんです。そこで、気づきました。“俺は完璧な選手でもないし、欠点もいっぱいある。まだまだ伸ばしていける”ということを。それ以降、相手を倒すとかではなく、“自分自身の成長”を目標にするようになりました。そこをモチベーションにすると、やる気のブレが少ないとわかったからです。それから北京までの2年間、その波がブレることは、一度もなかった。それは今も変わらないし、この4年間の財産だと思ってます」
「強くなりたい」という思いの次に、試合に勝つという目標がある。試練を乗り越え、たどり着いた「自分のテニスの原点」こそが、強い国枝慎吾を支えているのだ。
北京から帰国後、国枝は11月から本格的に練習を再開した。4年後のロンドンを目指すことは、ずっと前から決めていた。「昨日より今日。今日より明日、進化する」。そのモットーどおり、前を見据えるチャンピオンは、さらなる高みに挑戦することになる。
※車いすテニスは、ツーバウンドまでの返球が認められている
(記事:荒木美晴 撮影:吉村もと)
アスリート・プロフィール
国枝慎吾(くにえだ・しんご)
1984年2月21日生まれ。千葉県在住。9歳の時に脊髄腫瘍のため車椅子に。11歳から(財)吉田記念テニス研修センターにて車いすテニスをスタート。17歳から丸山弘道コーチの指導を受け始める。2004年アテネパラリンピックでは、斎田悟司と組んだダブルスで優勝。2007年に、車いすテニス界史上初の年間グランドスラムを達成。北京パラリンピックでは、斎田と組んだダブルスで銅メダル、シングルスで金メダルを獲得した。